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被災地支援センター

5 原発事故への思い  特に20km~30km圏内についてみれば・・・

1.屋内待避そして緊急時避難準備区域

3月11日地震発生から、南相馬市は原発事故に翻弄され、言葉ではいい表せない過酷な現実に直面してきた。私たちがここに文字で表すことを遙かに超える厳しい事実と時間を、南相馬行政と市民が過ごしてきたなかで、私たちの取り組みからみえてきた原発問題をここに述べる。

 ①本来は自力で避難できない要援護者は存在してはいけない
  屋内待避の指示がだされた時、自力で避難することが困難な人たちは、事前に避難することが求められた。障害のある人たちは、子どもや高齢者、入院患者らとともに、事前の避難の対象者であった。そのため、南相馬市では、警戒区域だけでなく、市全域で避難が続き、学校、病院、高齢 者福祉サービス、障害者福祉サービスの機能が停止した。
  加えて、放射能汚染を恐れて、市外からの物流が途絶え、屋内待避の家族には、食料、ガソリン、日用品、医薬品等が入らない状況に陥った。

 ②多くの障害者が避難していない。在宅でいる
地震後、「さぽーとセンターピア」は、利用者の安否確認に走り回る。すると、驚くべき事実に直面する。多くの障害のある人たちが、自宅にいた。「いざという時、逃げられるから残ったのではなく、どこにも逃げられなかった」という理由で。

  • 寝たきりの父を避難させたら、間違いなく命を縮めることになる。
  • 右も左もわからない避難所では、視覚障害の私たちは、暮らせない。
  • 逃げようと避難先にいってみたが、自閉症の我が子は、周囲に迷惑をかけるだけ。
      5月の連休後、一度避難した人たちも、自宅に戻ってきはじめた。特に、障害者のある人とその家族、高齢者を抱える家族は、いち早く戻ってきた。屋内待避から緊急時避難準備区域と指定が変わり、より多くの障害のある人たちが帰ってきた。
  • 自主避難先を転々とした30km圏外の精神障害者グループホームは、薬と環境の変化に対応できず、1ヶ月後に戻ってきた。
  • 聴覚障害のご夫婦は、情報がうまく伝わらず、何がおきたかわからないまま避難した。なにも持たずに避難した。時間がたつにつれて、原発事故での避難であることを理解する。準備がない避難は困難をきわめ、自宅へ戻る。
  • 発達障害の子どもさんを抱える家族は、親戚、知人の家を転々とする。気を遣い、結局自宅へ戻る。
    緊急時避難準備区域の指定とともに、災害時における要援護者調査が始まり、先に述べたような調査結果と多く深刻な状況が浮き彫りにされる。原発事故は、「避難しない、避難できない障害者」の存在を明らかにし、「在宅で医療、福祉、仕事と切り離された状況」への対応の困難さを浮き彫りにした。避難所へいけず、在宅でいる障害者は、避難所と違い、行政からの情報や支援が受けにくく、かつ在宅障かい者からの、せっぱ詰まった声の発信が伝わりにくい中で、大きな課題を残した。

2.原発の被害を被った障害者や事業所

①福祉を失う、仕事を失う
震災前、福祉事業所の送迎で、作業所で仲間と共に、活動してきた障害のある人たち。企業に勤め、給料と障害者年金で、ひとり暮らしをてきた青年。居宅サービスを受け入浴し、家族とともに暮らしてきた高齢障害者の方々。・・・・・・・。
すべてが、原発事故で一変してしまった。
地震や津波の被害を受けながらも、医療、福祉が回復しつつある地域と比べ、原発事故で警戒区域、緊急時避難準備区域、計画的避難区域となった南相馬市の現状は、現在も大変厳しい。

  • 自宅に戻った障害のある人たちの困難な状況をなんとかするため、日中活動の場を再開しようと考えたが、原発事故収束の見通しがつかないなかでのリスクは大きいとして、行政からの返答は、「検討中」のままの状態が続いた。
  • 福祉が再開をはかろうと、スタートするも、今まで、福祉を支えてきた若い人たち、とりわけ女性が放射能からの避難で戻ってこれない。
  • 避難しなかった障害者や戻ってきている障害者が、再開した作業所に通うことを強く希望する中、障害者のニーズに応える職員数の不足が続いている。
  • 企業が原発の影響で、撤退や規模縮小となり、障害のある人が職を失う。
    収入がなくなるとともに、かかわってくれた人を失うという重大な状況をまねく。
  • 作業所では、下請けの仕事が激減し、レストランや売店は撤退や閉所を余儀なくされた。地元の豆で作る味噌や豆腐は、購買力の低下に重ね、いわれのない風評被害により、売れない状況になる。

②再開への努力
7万人から1万人にまで減った南相馬の人口が4万人にまで、回復してきた。南相馬の福祉の事業所は、今回の調査で浮き彫りにされる、数多くの困難を抱えた障害のある人たちをそのままにしておけず、厳しい条件のなか、事業所再開の準備を進めた。

  • 求人をだしながらも、集まらない職員不足を補うため、介護職員派遣の要請で全国から福祉の専門職が、JDFを通し事業所支援にかけつけ、支援にあたる。
  • 相談支援事業所、地元社協、自立支援協議会、全国ボランティア団体等との協力連携により、困難な状況を抱える障害者の生活状況の改善のため、厳しい医療や福祉の資源となんとかつなげる道筋をさぐる。
  • 震災前の作業所での仕事が厳しい中、ヤマト福祉財団からの助成を受け、南相馬から新たな仕事おこしに取り組む。UF-787プロジェクト(美しい福島をとりもどす菜の花、ひまわりプロジェクト)のシンボルグッズの発信のため、南相馬の作業所が、南相馬ファクトリーとして、全国にカンバッジ等の商品販売を開始する。

③元に戻れない
南相馬市30キロ圏外の鹿島区、緊急時避難準備区域の原町区では原発の影響をうけながらも、再開にむけてスタートをきった。しかし、未だ帰れない警戒区域小高区も含め、原発問題に立ち向かう新たな挑戦なくして、元の生活はとりもどせない。南相馬市の新たな福祉のあり方への挑戦でもある。

3.原発問題への挑戦  民間、市、県、国が一丸となって

①願い
神戸では震災の3日後、学童の青空保育を始めたという。がれきの山のわきに張られたテントには、家を失った子どもたちが集まってきた。がれきの中から遊びを見つける子どもたちの元気な声と姿は、希望を失い欠けた大人たちに、多くの勇気を与えた。しかし、南相馬には、外で遊ぶ子どもたちの姿がない。一日も早く、子どもたちが自由に外で遊べるようなふるさとにしたい。 今回の調査で、自宅をまわる。仕事をなくしてしまった人たちをつつむ消失感が、心を締め付ける。障害のある人が楽しみにしていた作業所に通う。しかし、そこには仕事がない。なにもすることのない時間。汗を流し、体を使って、夢と誇りを持ち仕事に取り組みたい。
故郷で生きるために取り戻さなくてはならない基本的人権、安心安全な地域生活の実現。障害があろうが、なかろうが、原発に翻弄された南相馬の人たちが願うことである。

②除染と仕事おこし
緊急時避難準備区域の指定が、除染を条件に解除されると聞く。様々な除染方法の中で、JDF被災地障がい者支援センターふくしまは、ファイトメディエーション(菜の花、ひまわり)による除染試験を始めた。除染の効果とあわせ、種、茎、葉、根等への放射性物質の移行の状態等の検査を始めた。また、放射性物質が検出された物質については、好気性高温発酵による小規模処理プラントを設置予定である。
再び障害のある人たちが働ける畑にし、安心な地元の豆で美味しい豆腐をまたつくりたい。それまでの間、県外から送られるひまわりの種は、食用油にし、県内のひまわりの種ではBDF燃料をつくる。仕事がなくなった障害のある人の仕事づくりである。全国と「南相馬ファクトリーカンバッジ」のつながりは、ひまわりの種となり、福島に届けられる。障害があろうがなかろうが、夢と誇りの持てる仕事をつくりだすことが、今求められる。
ぜひ、南相馬の復興にむけ、様々な除染へのアプローチのひとつとして、低汚染地域の畑、田圃を一面の菜の花、ひまわりの花で埋め尽くしてほしい。処理施設は原発に近い場所で、好気性高温発酵のバイオマス発電所やバグフィルターつきの火力発電所の燃料にするなどを研究してほしい。その取り組みの中から、東電や国の責任を明確にし、多くの雇用を作り出し、除染を進めてほしい。 原発に翻弄され、原発からの復興しようとする南相馬に、希望のひまわりと菜の花は、最もふさわしい。

③南相馬市復興ビジョンへの提言

  • 復興ビジョンのシンボルは、希望のひまわり・菜の花である。
  • 原子力災害からの前向きな克服が、雇用を確保し、新たな産業を創出する。
  • ひまわり菜の花は「医療福祉保健を含む新たな市民生活復興」や「新たな教育子育て環境づくり」のシンボルであり、「全市民が復興へ向けて共有すべき、強い意志メッセージ」となる。
  • それは、障害があろうがなかろうが、みんながともに「心のふるさと 南相馬に生きる」ための復興の提言であり、南相馬からしかできない全世界にむけた復興の提言である。
  • この挑戦への鍵は、まさに今回の調査がつくりあげた、たくさんのつながりの力である。

  復旧でなく復興へ
        全国に、全世界に
            障害者も安心して暮らせる
                  南相馬の復興計画を!


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